屋久島のこと

屋久島のこと

西瓜で思い出すこと。

彼女は、むげに「要らない」と。いくら頼み込んでも「要らない」で終わってしまった。 帰りの道を1キロ歩くあいだ、悔しくて泣けて仕方がなかった。
2022.10.05
屋久島のこと

屋久島でのパイナップルの話。

しまったという経緯である。何かでたまたま大量のパイナップルの写真を見て思い出した。昭和44年が終わろうとしている頃、屋久島の人たちは、後にも先にも経験したことがないほどパイナップルを食べたはずだ。
2022.10.05
屋久島のこと

鹿児島弁の敬語には何段階かがある。

私の家族は、私が生まれる前の年に、現在の鹿児島県日置市から屋久島に移り住んだ。 なので、私の mother tongue は屋久島弁のはずである
2022.10.05
屋久島のこと

 学校謹慎を食らう ― 屋久島高校時代の思い出

 私が在学していた頃の屋久島高校では、停学には「無期停学」と「有期停学」があり、その下の少し軽い指導に、「家庭謹慎」があった。家庭謹慎は言わば停学と同じなので、用語として使わない学校も多いようだが。  いちばん軽い罰則(指導)に「学校謹慎」があり、私は高校2年のとき、この「学校謹慎」を食らってしまったのである。4日間。
2022.10.05
屋久島のこと

屋久島 縄文杉・宮之浦岳登山

 ヴィトンのバッグを抱え、ハイヒールを履いた若い女性が屋久島空港に降り立つや、空港前のタクシーをつかまえて「縄文杉まで行ってください」と言ったとかいう笑い話も聞いたりする。しかし、縄文杉へはハイヒールでは行けない。ちっとやそっとの行軍では行き着けないのである。タクシーが行けるのは、ほんの入口までだ。
2022.10.05
屋久島のこと

1964年に日本を襲った20号台風

 9月になると、私が小学5年生だったときの台風を思い出す。1964年(昭和39年)9月24日に屋久島を襲った。
2022.10.05
屋久島のこと

祖母と大伯母のこと。

祖母は1893年(明治26年)生まれ。私が1953年生まれなので、ちょうど60違う。 祖母が還暦のときに生まれた孫だったからか、殊の外、私をかわいがってくれた。私は「ばぁちゃん子」だった。 お寺に行くときも温泉に行くときも、私を連れていってくれた。兄たちを連れていかなくても、私を連れていってくれた。
2022.10.05
屋久島のこと

サトウキビ畑の草取り

 カライモの草取りも、まともに太陽を浴びるので暑いが、もっと大変なのはサトウキビの草取りだ。  夏休みの頃、サトウキビは1メートル50センチくらいの高さに成長している。畝幅は50~60センチで、畝の長さは、長いところだと50メートルくらい。
2022.10.05
屋久島のこと

子豚の切腹哀話

 子どもの頃、豚を飼っていました。ペットとしてではありません。畜産としてです。豚は、一度に 12~13 頭の赤ちゃんを産みます。ときに死産であったり、親豚の下敷きになって命を落としたりするかわいそうな子豚もいますが、10 頭くらいが元気に育っていきます
2022.10.05
屋久島のこと

ネコは自殺する。

長兄がいなくなって2,3日した頃から、「つゆ」の姿が見えなくなった。 あちこち探したところ、家から200メートルほど離れたポンカンの木の根元で死んでいるのが見つかった。
2022.10.05
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