カリフォルニアの青い空 ― 6.いったん屋久島に帰る

大学を4年で休学し、その後アメリカのカリフォルニア州にある大学に留学した。そのいきさつや出来事を書いていく。 

3月末をもって読売新聞育英奨学生の立場が終了した。

4年間の新聞配達(育英奨学生)と、内容が濃いとはとても言えない大学生活(留年でまだ学生身分だが)を終え、1976年3月末、私は大学に2年間の休学願いを出した。

アメリカでの留学は、自分では College of the DesertESLEnglish as a Second Language)に決めた。学生ビザの発行に必要な I-20 はまだ送られてきてはいなかったから、決定したわけではなかったが。

4月末には東京の長兄のところに出て滞在し、その住所をお教えするので、それ以降に I-20 を発行してくださいと手紙に書いた。
アメリカには夏をめどに行けるようにしようと考えていた。

4月末まで1か月ほど故郷の屋久島で過ごすことにした。

4年間住み慣れた小倉の街で有名な桜の名所である足立山の森林公園に桜の見納めに行ってみたが、この年は遅かったのか、3月末でほとんど咲いていなかった。そして、屋久島に着いてみると、もう桜は散っていた。なので、この年の満開の桜は見ていない。

ちなみにその後、翌年の春も翌々年の春もアメリカにいたので、桜を見ていない。つまり3年連続で桜を愛でていないのであった。

大学時代、中古の車を買って乗っていた。屋久島に住む次兄が欲しいと言うので、屋久島へは車で帰ることにした。

朝8時に鹿児島を出るフェリーに乗れるように小倉を出た。途中、熊本で大学の同級生(彼は卒業していた)に会って話をし、一路鹿児島へ。
熊本県との県境を過ぎ、出水という町でガソリンを入れたとき、久しぶりに鹿児島弁を聞き懐かしく思った。

屋久島では、親の畑仕事を手伝ったり、中学や高校の友人たちと飲んだりして1か月を過ごした。
もう新聞配達はする必要がないので朝早く起きる必要はなかったが、習慣で、しばらくは4時頃に一度目が覚めたものだった。

また、目覚めたときに外で雨の音がすると、滅入った気分になった。新聞配達の生活で何がイヤかと言って、雨ほどイヤなものはなかったのだ。

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