カリフォルニアの青い空 ― 7.東京に出てバイト

大学を4年で休学し、その後アメリカのカリフォルニア州にある大学に留学した。そのいきさつや出来事を書いていく。 

アメリカには夏ごろ(8月あたり)に行くつもりにしていたので、それまで、東京に出てアルバイトをし、金を貯めることにした。

アメリカの大学での English as a Second Language コースは、授業料が無料だと言ってきたので、かなり安心だったが、それでも、生活費は必要だ。どれほどの金が今後必要になるのかなどは考えも及ばなかったが、貯められるだけの金は貯めておこうと思った。もちろん、アメリカに行こうと決めたときから、新聞配達での給料も、かなりを貯金に回していた。

屋久島を出て東京に着いたのは、確か、当時の天皇誕生日、今の「昭和の日」である4月29日であった。
長兄のアパートに住まわせてもらい、アルバイト探しをした。できるだけ時給のいいアルバイトを探した。
運良くすぐに、兄のアパートから私鉄の駅を3つ隔てたところに、シロアリ駆除の仕事を見つけた。ほかの仕事に比べて時給がよく、はっきりと覚えていないが、時給が550円くらいだったと思う。

シロアリ駆除というのは、人家の床下に潜り、薬剤散布などをする作業である。
すでに建って人が住んでいる家では、床下にもぐる。まだ完成していない家だと、床下にもぐる必要がないので助かる作業だった。

3人一組で行う。まず、先発の者が電気ドリルで床下にある柱に穴を空け、2人目がその穴に薬を注入する。そして、3人目の者がコルクのような木片でそれにふたをするという作業である。そのあと、床下全面に薬剤散布をする。

一日に何軒も作業をすることがあった。残業代は出たし、夕方のある時間を過ぎると夕食手当が出た。夕食手当は決まった金額で、それよりずっと安い晩飯を食えば、ちょっとは浮く計算になる。そして、現場への行き帰りの車を運転すると、「運転手当」というものも出た。なので、先輩たちにお願いして、慣れない東京の道路だったが、運転をさせてもらったりした。

なので、運転して残業すると、一日で8千円を超えるような日もあり、ほかのバイトに比べて実入りのよいものだった。

アメリカの大学のほうは、東京に出てからも手紙をやりとりし、学生ビザ取得に必要なI-20も発行してもらった。そして、アメリカ大使館に行き、学生ビザも取得した。

シロアリ駆除のバイトは劇薬(当時は「ヒ素」が含まれていると言われていた)を扱う仕事だったし、つなぎを着てほおかむりをし、マスクをした状態で、夏に向かう気候の中、長時間床下に潜っているのは辛かった。それで、この仕事は6月いっぱいで辞め、7月は、デパートの中元配達のバイトに切り替えた。
中元配達のバイトも7月20日頃に辞めた。

学生ビザも取得し、もちろんパスポートも取得した。しかし、カリフォルニア州の Palm Desert という町がどこにあるのかが分からない。中学のときに買った日本地図の付録みたいに付いているアメリカの地図には、当然載ってはいない。

新宿の紀伊國屋書店で、索引付きの大きなアメリカの地図を買った。それで確かめた。Palm Desert という町は、カリフォルニア州には1つしかなかった。まず、ここで大丈夫だろう。

憧れ続けた、あの南カリフォルニアだ。

父の従弟が石油会社に勤めており、彼に頼んで格安の航空券を手に入れた。片道切符だった。これがあとでアメリカでの入国審査でトラブルになるとも思わずに買ったのだった。

1976年8月4日にアメリカに出発した。当時は成田空港がなく、羽田からだった。長兄と従妹が見送りに来てくれた。

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