屋久島でのパイナップルの話。

何かでたまたま大量のパイナップルの写真を見て思い出した。

昭和44年が終わろうとしている頃、屋久島の人たちは、後にも先にも経験したことがないほどパイナップルを食べた。

 何日くらい続いたか、私も家族も毎日喰ったし、兄は牛に食わせるパイナップルを、トラックいっぱいタダでもらってきた。

 パイナップルは、サイコロに切って、唇に触れないようにして食えばなんともないのだろうけど、西瓜を切るように半月型にして、吸うような感じで食うと、唇が痛む。

 笑うと唇が切れる。

 学校でも、「笑わせないで! 唇が切れる」と、みんなが言っていた。

 どうしてこんなことが起きたか?
 どこかの会社がパイナップル栽培による収益配分投資会社を作り、話によると森繁久弥氏なども、多額の金を投資したらしい。

 しかし、昭和44年秋の「佐藤・ニクソン会談」で沖縄返還が決まった。
 そうなると、沖縄からのパイナップルが安く大量に日本に入ってくるというので、メリットがなくなった。それで、投資は失敗し、収穫を目前にしたパイナップルは売れなくなり、ほぼ廃棄処分扱いになってしまったという経緯である。

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