歌うときの鼻濁音のこと ― 山口百恵。

 仕事で頭の中が腐るくらい疲れた日は、帰りの電車の中では本を読まずに、音楽を聴く。
 私の年代の人にはジャズが好きな人が多いが、私は、ジャズはのめり込むほどではない。友人に、ジャズを話させたら1週間でも2週間でもしゃべり続けることができると言う人がいるが。

 私は、昭和歌謡だったり唱歌だったり、60年代70年代のアメリカのポップスだったり。

 70年代に山口百恵の人気が絶頂だったころ、私は彼女をあまり気にしなかった。しかし、今になって改めて彼女の歌を聴いてみると、彼女の鼻濁音がしっかりしていることに驚く。

 最近の若い人たちでガ行音を鼻濁音で歌う人はほぼいないと言ってもよいだろう。

 「ガ行音の鼻濁音」というのは、語頭に「ガギグゲゴ」が来る場合は濁音で発音し、語の途中のガ行音は鼻濁音にする。「ンガ、ンゴ」のような発音である。
 数字の「五」は、語の途中であっても鼻濁音にはしない。『赤とんぼ』の「♬ 十五でねえやは嫁に行き」の「十五」は鼻濁音では歌わない。「じゅうご」という発音であっても、「銃後の守り」は鼻濁音にする。

 山口百恵の歌を聴いていると、この法則をしっかり守って歌っているのに気づく。

 そして、彼女が「よごれて」の「」の音を若干、濁音に近い音で歌っていることに気づいた。

 語の途中に来るガ行音でも、例えば「脱獄」とか「監獄」などのように強い意味を持つ語は、あまり鼻濁音にはしない。なので、「よごれる」も、汚いニュアンスを出すために鼻濁音にはしないほうがいいとされる。

 彼女の発音は天性のものなのだろうか。それとも、ちゃんとした歌唱指導の先生がずっとついていたのだろうか。
 ほかの歌手の場合、歌によっては、鼻濁音が混在していることもある。有名な演歌歌手で、上の「十五でねえや」の部分を鼻濁音で歌っているのを聞いたことがある。

 もうひとつ、山口百恵の歌で気づいたのは、「さまよう」とか「とまどう」を、samayoutomadouではなく、samayootomadoo と発音していることである。やはり美しい。

 高島俊男氏の本に、次のようなことが書いてあった。
 ある小学校の授業参観で『背くらべ』を歌ったところ、ある保護者が「『せえくらべ』って歌っていましたよ。どういう教育しているんですか。ちゃんと『せいくらべ』って歌わせてください」とクレームをつけてきて、教師が困惑した。

 高島氏は「これは保護者のほうが間違っている。『せえくらべ』が正しい」と書いている。

 私は以前にチェリッシュというデュオが『冬物語』という歌を歌っているのを聴き、巡礼を「じゅんれえ」と発音していて、いいなあと思った。

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