やくざの街、小倉での思い出 ― やくざに勧誘された

小倉の工藤会の野村総裁に死刑判決が出てニュースになったので、小倉での思い出を少し書いてみよう。

 私は、学生時代に育英奨学生として小倉で新聞配達をしていた。

小倉は全国的に「やくざの街」として悪名高いところである。私も小倉で新聞配達をすることが決まったとき、「怖い街だろうな」という意識はあった。

俱利伽羅紋々(入れ墨)にビビる

 大学の入学式の前々日あたりに新聞店に配属された。そして、配達区域も決まった。

 もちろん、土地勘もどの家が購読者なのかもまったく知るわけがないので、その区域を当時担当していた主任が案内してくれる。

 「順路帳」という細長い手帳のようなものを持って配達する順序を覚える。配達する順序で読者の名前が書いてある。主任に教えてもらいながら、曲がる道の特徴や読者の家の特徴などを書いていく。200軒ほどの読者数だから、すべての家の特徴を書いていく時間はないが、主任に許可をもらいながら、何軒かの特徴を書いていった。

 まだ4月の初めだったから、夕刊を配達する時間帯は肌寒く、多くの人は長袖姿だったが、ある家の前に、上半身裸で背中いっぱいに倶利伽羅紋々(入れ墨)をいれた中年の男の人が立っていた。

 主任はその家に至るまでは、通行人や家の前に立っている人たちに対してそんなに挨拶をしていないような記憶だったが、倶利伽羅紋々のその男の人にはていねいな挨拶をした記憶がある。

 映画やテレビでは入れ墨は見たことがあったが、現実世界では初めての経験だった。やっぱりビビった。怖い街にきてしまったなぁと。

 その後、夕刊の配達時にその男の人はよく見かけたし、ときどき「お、兄ちゃん、頑張りよるの」と声をかけてくれたりして慣れてはいったが。

「うちにはバックがおるけぇ」

 また、配達を始めて何日か経った頃、何かの機会に、私たち新入生(3人いた)が店に残っていたときに店長がやってきて、「お前らの、街でチンピラにいちゃもんを付けられたり、何かのトラブルに巻き込まれて困ったりするようなことがあったら、言って来いや。うちにはバックがおるけぇ、大丈夫やけ。そんなことは簡単に解決しちゃるけぇの」と言ったことがあった。

 事実、彼はタクシー会社や広告会社も経営していたりして、小倉でもけっこう顔が広い人だった。今の社会では、こうした反社会勢力と付き合いがある企業は、まずアウトだろうが。

やくざに勧誘されかかる

 新聞配達の生活は、夜遅く寝て朝早く起きてことが多い。

 朝飯を食って部屋に戻って新聞を読んでいたりしていると、眠たくなってくる。「大学に行く前にちょっとだけ寝よう」と寝てしまうと、目が覚めるのが昼過ぎだったり、疲れが溜まっているときなど、目が覚めたときにはもう夕刊直前だったりすることもよくあった。

 朝から夕刊直前まで数時間も寝てしまうと、やっぱり夜は眠れなくなる。本を読んだり勉強(一応)をしたりしていると、夜中の2時頃には小腹がすいてくる。

 私が住んでいた部屋から3軒ほど隣に、朝まで開いている喫茶店兼スナックバーがあった。小腹がすくと、ときどき、この店に焼きうどんを食いに出かけたものだった。

 ちなみに、焼きうどんは小倉が発祥の地らしい。

 このスナックバーの経営者がやくざと知り合いだったのか、いかにもその筋の人というような人たちが、よく夜から明け方にかけて来ていた。

 あるときなど、客と経営者(マスター)が言い合いになり、マスターがアイスピックを手に持って客を店の外まで追いかけて行ったのを見たこともあった。

 ある夜、私はいつものように夜の2時頃に焼きうどんを食べに行った。

 いつものテーブルに一人座って本を読みながら食べていると、テーブルの向かい側に人が座ったのが分かった。

 私が「はい?」という感じで顔を上げると、30歳くらいの、見るからにその筋の人と思える人に、「兄さんは学生か?」と言われた。「そうですけど」と答えながらその人の手を見ると、小指が途中から欠けていた。

 小指が途中から欠けた人にこれほど接近されたことがなかったので、やはりビビった。その人に「どや? 大学は楽しいか?」などを聞かれて、当たり障りのない返事をしていると、「なぁ、兄さん、やくざにならんかね」と言われた。

 「いやぁ、まだ単位も残っちょるし」などと答えながら、質問をはぐらかしたりしていたが、そのうち、その筋の人のような男の人は、

 「うん、兄さんは目がやさしいけ、やくざにはなれん

と言って、私を解放してくれたのだった。

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