『郷ひろみのNew York Voice』

 

この記事は、下の『小林克也のアメリ缶』の続きのような感じです。

 『小林克也のアメリ缶』は、売れに売れた。35年前の話なので、現在50歳以下の人たちは、あまり知らないかもしれないが。
 
 そして、発売から1年近く経った1987年の夏前のこと。

 前職の会社にいたときからの知り合いだった人が、『小林克也のアメリ缶』の制作者が私であることを知り、連絡してきた。「ハワイにあるリゾートマンションを販売している会社が、郷ひろみ氏をフィーチャーし、『小林克也のアメリ缶』に似た英会話教材を作りたいと言っている」と。

 その会社がハワイに作ったリゾートマンションの販売キャラクターとして郷ひろみ氏を採用し、そのタイアップとしての教材制作だったようだ。『郷ひろみの New York Voice』というタイトルで売り出したいと。

 当時、郷ひろみ氏はニューヨークに住んでおり、1987年の8月末に一時帰国するので、その機会をねらって音声を収録したいというスケジュールになっていた。そのため、私はそれから1か月足らずでストーリー作成と原稿執筆、そして音声収録台本を仕上げるのに大忙しだった。ほかの仕事ができないように、ホテルに缶詰にされたこともある。

 8月の終わり近くに、原稿と台本の執筆が終わった。

 郷ひろみ氏は9月半ばまでは帰国しないだろうということで、私はその合間を縫って屋久島にいったん帰省することにした。

 屋久島に4日ほど滞在した頃、台風が近づいていることが分かり、滞在を少し延ばしてその台風をやり過ごすことにした。

 すると、東京から電話がかかってきた。当時はまだ携帯電話などはない時代なので、万一に備えて屋久島の親元の電話番号を教えておいたのだった。

 電話は「郷さんが急に帰国することになった。なので、収録することになった。スタジオも予約して押さえた。赤井田さんもすぐに東京に戻ってきてほしい」という内容だった。

 台風をやり過ごして帰京しようと思っていたので、のんびりしていたが、急遽、空港に駆けつけて空席状況を問い合わせると、「台風が近づいているので、この便が最後です」という飛行機の切符が何とか取れたのだった。

 これが大変な飛行だった。

 台風が近づいていることもあって、屋久島から鹿児島空港までの飛行は、私の人生のなかで最も揺れたものだった。
 
 屋久島を出て海上を飛んでいるときはそんなに感じなかったが、大隅半島の上空にかかった頃から、とんでもない揺れ方を始めた。

 キャビンアテンダントの女性は、アナウンスで「これくらいの揺れはふだんよくあることですので、ご心配なさらないでください」と言いながら「きゃっ!」と叫んでみたり。

 急降下して山肌がぐっと迫り、「ああっ!」と思っていると、横に流されながら急上昇したりだった。あの日航ジャンボ機の御巣鷹山の事故から2年しか経っていないので、生きた心地がしなかった。

 通常は屋久島から鹿児島まで30分くらいだが、そのときは確か50分くらいかかったはず。
 
 無事に着陸したときは、乗客のみんなが拍手したくらい。

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