カリフォルニアの青い空 ― 41.ハワード・ミンスキー氏に会ったこと

 ハワード・ミンスキー氏と言っても、ほとんどの人には馴染みがないであろう。私も、ある人に「ハワード・ミンスキーが我が家に来るぞ」と言われたときには、誰なのか分からなかった。

 前に書いた「フォード元大統領と友だち」という家族とは別の家族で、同じように、奥さんが日本人という家族があった。
 ディズニー映画社の極東総支配人をやっていた人で、日本に28年住んでいたそうだ。私が知り合ったときは、その家族が日本を離れ、Palm Desert という町に住み始めて、まだ2か月くらいというときだった。

 彼は28年も日本に住んでいながら、そして奥さんが日本人なのに、日本語がほとんど話せない人だった。日本で生まれ日本育ちの子供も2人いた。当時高校生の長男と10歳の次男の2人。彼以外の家族、つまり奥さんと2人の子供は流ちょうな日本語を話したが、彼は、日本にいるときは、ビジネスでも家庭内でも、すべて英語で通していたようである。

 ディズニー映画社の極東総支配人だった人なので、かなりの金持ちである。世界各地を家族で何度も旅行したが、子どもたちは飛行機ではファーストクラスにしか乗ったことがないと言っていた。

 次男は4年生だった。日本の生まれ育ちなので日本語は聞いたり話したりはふつうにできたが、日本のアメリカンスクールに通っていたため、ひらがなは読めたが、書くことはできなかった。

 それで、私が下の子に日本語を教える家庭教師をすることになったのである。

 ある日、このディズニー映画の極東総支配人をやっていた人の家にお邪魔して飲みながら話をしていると、「明日ハワード・ミンスキーが我が家に来て簡単なパーティーをやるが、君も参加するか?」と言われた。

 ハワード・ミンスキー氏とは、70年代初めに大ヒットした映画『ある愛の詩』の製作者(プロデューサー)だと教えてもらった。70年代に若い頃を過ごした人たちには馴染みの深い映画だろう。思い出深い映画だろう。私が大学に入った年に小倉でも上映されており、観に行った。

 私は、一も二もなくイエスと言った。

 パーティーと言っても、ハワード・ミンスキー氏を含めて3人がやって来ただけだった。
 タマネギを炒めただけの簡単な料理や、チーズやクラッカーをつまみながらで、ゴルフ場に面した庭のプールサイドで飲むという、いたって簡単なものだった。

 しかし、私は多くの時間をハワード・ミンスキー氏と話す機会が得られたのだった。ハワード・ミンスキー氏が主賓のはずなのだが、ディズニー映画社の総支配人だった人は、あとの2人の客ともっぱら話しており、私とミンスキー氏が2人で話す時間が多く持てたのはラッキーだった。

 『ある愛の詩』のプロデューサーに会え、そしてかなり長い時間を話して過ごせたことは、今でも、私の大きな思い出のひとつになっている。

 「君の英語は、発音やアクセント、イントネーションはまだまだだし、スピードもゆっくりだが、文法はしっかりしている」と言われたのが、ちょっとした誇りになっている。

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