カリフォルニアの青い空 ― 最終回 ―― 大学学内新聞の編集スタッフを終える。

 レイアウトと制作の作業に明け暮れていたある日、教授を交えて編集会議があった。

 そのとき、教授から「タクヤはレイアウトと制作に非常に献身的で、読みやすいし評判がよい。なので、タクヤを Production Manager にランクアップさせる。以降、こういうメンバーで進める」という通達があった。

 それ以降の編集スタッフ表がこれである。上から4人目に、Production Manager ……… Takuya Akaida とある。

 私は、日本での大学時代には読売新聞奨学生として配達業務や集金などに忙殺され、大学でのサークル活動などはしたことがなかった。
 アメリカの大学での学内新聞の編集・制作に、ただ一人の non-native speaker として参加し、Production Manager に抜擢され、充実した学園生活を送っていたが、日本の大学の休学期間が切れようとしていた。
 復学しなければならなかった。

 1978年4月、日本の大学に復学届を出した。そして、半年間の学費(1万8千円=3000円 × 6か月分)を親に頼んで払ってもらった。

 砂漠の町の大学の学内新聞編集スタッフには、私の立場を説明し、日本に帰国するので4月いっぱいで編集スタッフを辞めたいと伝えた。

 そして、私たちが編集・制作した The Chaparral が、1978年前期 semester のカリフォルニア大学新聞大会で、晴れて3位を獲得したのであった。

 そのときのトロフィーがこれである。そんなに大きなトロフィーではないが。

 日本に帰る直前にそうした賞をもらったことは、大きな喜びだった。

 5月からアメリカ一周旅行に出ることにしていた。
 4月の末に、編集スタッフの何人かが、私をレストランに招待して、昼飯をおごってくれた。

 こうして、私の砂漠の町での学生生活は幕を閉じたのであった。5月の初め、Amtrak という列車で1か月のアメリカ一周旅行に出た。

 長いあいだ、お読みくださりありがとうございました。

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